[ 【プロストの独白】 ]
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ちょっと昔のホンに載ってた、プロストが故セナを語った。 事故死した3ヶ月後にやっと気持ちを口にしたってやつ。 シューマッハーはいまだセナへの思いを口にしてないね。。 きっとシューマッハも引退したら語ってくれる。シャカリキになって追いかけた先輩セナのことを。。
【アラン・プロスト、アイルトン・セナを語る】 『美しきライバルよ永遠に』
アイルトンのことを今はまだ話せない。わかるだろう?もう少し時間が必要なんだ… モナコで、こう答えた彼の表情は憔悴しきっていた。
セナとの思い出を語る。。アランがそれを承諾したのはそれから3ヶ月経った、ホッケンハイムでの ことであった。ルノーのモータホームの中で彼は話し続ける。 時には微笑みを浮かべ、時に涙を堪えながらも終始とても穏やかな表情であった。
アイルトン…親しみを込めてアランがこう呼ぶのは、彼が亡くなってからからのことではない。 プライベートなインタビューではアランはいつでもアイルトンと呼んでいたという。
Q.アイルトン・セナが亡くなってから3ヶ月が経ちましたが今でも日常生活の中で、 しばしば彼を思い出すことがありますか? 『キャリアのすべてとはいわないまでも、僕はそのほとんど、F1での10年間、コース上でのライバルとして 彼とともに過ごしてきた。彼が亡くなったことは、すべての人々に厳しい衝撃を与えたとおもうけれど、3ヶ月 経ったいまでも、ほとんど毎日彼のことを考えている。F1=フェラーリ、或いはF1=他の偉大なドライバーと 考えるのと同様に僕にとっては今でもF1=アイルトン・セナなんだ。僕個人にとって、アイルトン・セナは、 F1を象徴する肖像であり続けるから』
Q.特定の状況で彼を思い出すのではなく、常にそこにいるということでしょうか? 『うん。今もまだ彼を思い出させることはたくさんあるからね。昨日もホッケンハイムの予選の結果を見たり、 それについて話している人々の言葉聞いたりして彼のことをどんどん忘れていってしまえている。と思えた。 毎日のように彼のことを考えている人も(そうでない人もいてそういう人たちは余計)少し早く忘れすぎる傾向はある と思える。でも僕は、今も彼のことをよく思い出すんだ。(日々のなかの)様々なことが彼を思い出させるから』
Q.あなたがアイルトンと初めて出会ったのは、彼がF1にデビューしてからのことでしょうか? 『本当の意味で彼に会った(話した)のは彼がF1にデビューした直後だった。ニュルブルクリンクで メルセデス190のエキシビジョン・レースがあった時、たぶん’84だったと思う。たしか彼はすでにF1で 走っていたけれど、それ以前には会ったことはなかった』
Q.それ以前のたとえば、イギリスF3でのレースや’83末のマクラーレンをテストしたしたときの ドライビングは、見たことはありませんでしたか? 『マクラーレン?ウィリアムズではなくて?本当??彼が’83末にマクラーレンをテストしたことは まったく知らなかったよ。F1にやってくる若いドライバーはたくさんいたし、僕達レギュラードライバーは 彼らに会ったり雑誌やテレビの紹介を見て少しは注目していたけど。。F1デビュー前のアイルトンで 僕が覚えているのは、カート時代の彼だね。僕もカート出身だったし、周りにはカートを追いつづけている 人もいたから、すごく才能があるドライバーとしてアイルトンの名前が頻繁に話題になっていたのを覚えているよ。 でも、その後のフォーミュラー・フォードやF3の時代には少し彼を見失った感じだったね。だから、カート時代の あとは、F1デビューした時に出会ったという印象なんだ』
Q.で、メルセデスのレースの時初めて話したんですね? 『うん。僕たちは同時に空港に到着することになっていたから、メルセデスの人たちが彼を探すよう 頼んできたんだ。そしてサーキットまで車でいっしょに移動して、その後レースで走った。車の中では いろいろ雑談したけれど、あんなふうに長く会話したのは、あの時が最初だった』
Q.どんなことを話したか覚えていますか? 『お互い、若いドライバーだったから、残念ながら話題といえばレースのことだけだった。 それでも、自分たちの出身のことを話したのを覚えているよ。 彼はブラジル人で僕とは少し違う道を辿ってきていたとか、僕がどこで生まれたとか、 どんなふうにレースを始めたのかとか、たくさん質問してきた。それはすごくよく覚えているよ。 話題はすぐにF1のことに戻って、彼は僕にマクラーレンのことを聞いてきたし、僕は彼に トールマンのことを聞いたりしたね』
Q.当時、つまり彼がF1の入り口に立っていた頃、 この若いブラジル人ドライバーにどういう印象を持っていましたか? 『当時の僕は少しだけ経験を積んでいたけれど、F1にやってきた若いドライバーたちを評価・判断するほど ではなかったので非常にむずかしい質問だね。僕自身のそうだったと思うけれど、若いドライバーというのは みんな同じアプローチをするものなんだ。つまり、みんな少しおとなしくて、自分の人生におけるただ1つのことを 見つめている。F1への入り口。それ以外のことは、あまり重要じゃあないんだ。 若いドライバーというのはみんなこういう風だよ。だから僕の目には、アイルトンも他の若いドライバーも同じように映った。彼が他のドライバーより才能に恵まれ、並外れた存在であることは後からわかったことだ。 彼のレースをあまり見ていなかったからね。トールマンで出走してはいたけれど、彼の存在が本当に目立ったのは、 ’84の(雨の)モナコGPのことだったね』
Q. あのモナコGPに関しては、多くが語られ,書かれてきました。けれどそれは常にアイルトンの立場からみた 見解でした。つまり、レースがあと1周長く続行されれば、プロストを抜けたのでは?といったもの。 あの時、マクラーレンに乗ってトップを走り、若いブラジル人ドライバーに追い上げられていたあなたは何を 考えていましたか? 『とにかく、あれはすごく難しいレースだったね。1〜2周前から雨足がとても強くなっていて…でも僕にとっては、 彼は競争相手ではなかった。追い上げてきているのが誰であっても僕にとって危険な存在はニキ・ラウダだった。 そのニキもすでに途中リタイヤしていたから選手権における競争相手はもういなかったんだ。 あれは僕にとって幸運なレースだったと言えるだろう。レースがあの時点で打ち切られたことによって、 僕は1勝をものにできた。僕のマシンにはブレーキ・トラブルが発生し始めていたし、 1周とは言わないまでも2〜3周あれば、きっとアイルトンは僕を抜いていっただろうからね。 でもレースが続行されていたとしてレース距離の75%を満たしていれば、僕は1位のハーフ・ポイント4.5pではなく、 2位の6pを獲得しただろうから、あの’84年のワールド・チャンピオンになっていたはずなんだ。 だから論理的に考えないといけないね。たしかに彼にとっては、あのレースはメディア的にとても重要なレースだったね』
Q.あの時点で、彼がF1の新しい彗星だと感じましたか? 『1レースだけでは、そんなこと言えないことだよ。1戦だけで判断するのはとても危険だ。 彼のマシンは雨の中ではすごく調子が良かったのだろうとか、こんなふうにセッティングされていたからだとか、 そういう風な分析はすればできる。僕のマシンもレース序盤こそ好調だったけれど、コースにたくさんの水が出てからは 調子が落ちたしね。それより、驚いたのは表彰台に上がる前に彼と会った時に僕は彼と握手しながら ”よくがんばったね、ブラボー!”と言って祝福したのだけれど彼はものすごく落胆していた。 あんなふうにレースが打ち切られたことをものすごく不満に思っていたようだね。この頃すでに彼のこういった キャラクターを備えていたんだよ。彼にとって、F1での初めての表彰台であり、初めての2位だったのに全然満足して いなかったね。あんな形で優勝したこと自体には、僕も満足はしていなかったけれど、雨があまりに強くなって非常に 危険な状態になっていたことは事実だったからレースを打ち切るといった判断に僕は賛成していた。 一部には、”プロストがレースを打ち切らせた”と言うジャーナリストがいたし、僕達の間に対立した関係を作り始めた のも、あのレースがきっかけになったね』
プロストとセナは確かに激しいライバル関係にあった。しかし、それは真にプロフェッショナルな関係であり 決して敵対していたわけではない。
Q.アイルトンが並外れた才能を証明し始めたのは、その後の’85〜87年にロータスで走った時代だと言えますよね。 その頃あなたはマクラーレンで走っていて、1度目、2度目のワールド・チャンピオンを獲得していきましたが、 彼が将来最大のライバルになるとはっきり意識していましたか? 『それは、決してわからないことなんだよ。彼は僕のライバルになるだろう。それは確実だ。彼には他のドライバーより 才能があったから。でも、彼がどんなマシンを手に入れどういう風にキャリアを積んでいくかなんて誰にもわからない からね。外から見て非常に才能に恵まれた並外れたドライバーであることは確実にわかる。でも同じチームで彼の 仕事を日々見つめてこそ本当の価値を知ることができるんだ。アイルトンにどれだけの能力があるか? 本当にわかったのは’88年に彼がマクラーレンにやって来た時のことだ。外から見て彼が素晴らしいドライバーで あることはわかった。でも本当にすごさを知るには一緒に仕事をすることが必要だったね』
Q.’87年の末、あなたはチームメイトとしてアイルトン・セナを受け入れましたね。 最初、ロン・デニスがこの案をあなたに打ち明けた時、迷わずすぐにそれを受け入れることが出来ましたか? 『うん。当時はネルソン・ピケやアイルトン・セナの名前が挙がっていたけれど、僕はロンやマンスール・オジェに いつもこう言っていた。 ”潜在的な能力がもっとも大きく、あの年代での中でもっとも才能があるのはアイルトンだね” チームの利益を 考えると、僕にとってそれは疑う余地はなかった。もちろん僕自身の利益という考えもあるけれど、 当時、ロンとマンスールと僕はマクラーレンというチームのためにすごく結束していたし、僕は自分自身の利益よりも チームの利益をまず考えていたから。僕自身のことだけを考えるなら彼でなくニ流のドライバーをNo.2として 迎えるのが有利だったかもしれないけれど、チームの将来のためには、アイルトンを選ばなくてはならないと思ったんだ。』
Q.その結果、プロスト・セナのタンデムはあまりに強力になり、あなた方2人は、コース上で絶えず激しい戦いを 繰り広げことになりましたね。 『チームメイトを理解し合いながら、タイトルを争うことができれば、それがスポーツのすばらしいところだと思う。 ’88年には僕たちは本当に仲良く仕事が出来た。僕たちの原則は、可能な限り最高のマシンを作るためには、 まず、力を合わせ一生懸命に仕事する。チームのためにすべてのレースを制覇しようと努力する。 そして、それから互いに戦う。ということだけだった。この考えは僕も彼も同じだったと思う。 彼の場合は、本当に僕を倒すことが大切だったんだ。彼が若いドライバーであり、僕のほうが経験があり、 戦績を残していたことを考えるとこれは当然のことだよ。’88年は問題は全く起こらなかった』
Q.当時、あなたは少し”お兄さん”的な役割を果たしましたか? 『うん、少しね。彼は僕の言葉に耳を傾けたし…。でも少しずつ彼は自分の仕事、自分のシステム、自分のものごとの見方というものを築いていったね。 ’89年に僕たちが問題を抱えたのは残念だったけれど、問題を抱えていた時にも僕達の仕事のやり方、 プロフェショナリズムというのは、絶対に完璧なものであった。つまり、僕たちがあまり言葉を交わさなくなった、 そういう時期であっても、モーターホームに入ってミーティングを行う時には、そんな問題は完全に忘れることができた。 僕たちはすべての情報を交換し合い、マシンを良くしていくのに一生懸命だった。あれは本当に素晴らしかったね』
Q.モーターホームの中では会話を交わしていたのですか? 『うん、いつもね。ずっと話していたよ。』 Q.それぞれの担当エンジニアを介してではなく?? 『一度もそういうことはなかった。他の多くのドライバーがしばしばやるように、別々に仕事をするというようなやり方は、僕たちは一度も取らなかったよ。常にすべてを共有しながら仕事をしたんだ。』
Q.’89年でさえ、そうだったんですか? 『’89年でさえね。うん。とりわけ’89年だね。というのは、’88年には技術的にもすべてがうまくいっていたけど、 ’89年には状況が難しくなっていたから。でも僕たちは常に同じやり方で仕事を続けた』
Q.当時の話しは、少しプレスに作られた部分もあったということでしょうか? 『たしかに’89年には問題があった。サンマリノGPのスタート前に彼と交わした約束が守られなかった。 あの時には、僕たちは問題を抱えた。それにアイルトンはとても頑固な人間だから。。たしかに問題はあったね。 でもすべてはメディアによって故意に大袈裟に語られていた。と、僕は思っている。 僕たちの間に問題はあったのは事実だけれど、プレスによって、周りの多くの人間が僕たちの関係をライバル以上の 敵対したものだと捉えてしまうようになった』
Q.コース上で今も覚えている正確な瞬間がありますか? 『もちろん。僕が決して忘れることがないのは、’90年の日本GPだね。彼が故意に僕をコースから押し出したレースだ。 でも、他はすべてレースでの思い出でしかない。それぞれが僕たちの対立、喧嘩であったとはもう決して考えていない。 これは僕にとってとても大切なことなんだ。彼のような存在を失った時には、たとえあの日本GPの事故のような 思い出でさえ、いい面だけを思い出していくことが重要なんだ。すべてを拭い去り、悪い思い出、いい思い出などと 分けないで考えなければならない。ネガティブに考えても、何の役にも立たないからね。 彼は10年の間F1のイメージを築き、F1に足跡を残しいった人間なのだ。僕たち2人のライバル意識は、 メディア的にもF1の規模をものすごく成長させた。 彼を失ったのは、僕にとっても自分の思い出、自分のキャリアを失うということだったんだ。 だから、あの時ああいうことがあった、別の時にはこうだったとか、そんなふうに言っても何にもならない。 僕は忘れてしまう性質だし、根に持つ性格じゃない。最終的には、僕たちはとても近づいたのだから。 自分の隣に僕がいること、コース上で戦う相手として僕がいたことが、自分のモティベーションを発揮するのに どれほど大切だったか、アイルトンは僕が引退したした時に本当に感じていた。僕を倒すことに彼は本当に情熱を 燃やしていた…。僕たち2人のあいだにとても大きな敬意が存在していたのは確かだ。この敬意がある限り、 どういう形であろうと僕たちはお互いをよく理解できたんだ。’92年に僕が走っていなかった時にも… その後、僕はウィリアムズで走ることになったのだけれど…僕たちは頻繁に電話で話した。自分にとって唯一の モティベーションは僕を倒すことなのだと、彼はしばしば僕に言ったよ。もちろん、僕と一緒にウィリアムズで走りたい のだと。たしかに彼はウィリアムズのマシンを手に入れようとしていたからね。 '93年に引退した時、僕は感じていた。ミハエル・シューマッハーやジャン・アレジゲルハルト・ベルガーを相手に 彼はもう今までと同じような情熱を持って戦うことはできないのだとね。彼にとっては、それではまったく違ったんだろう。 何かが崩れてしまったんだよ。今、彼を失った僕も同じ状態なんだ…僕にとってもF1の何かが壊れてしまった。 新しいページをめくらなくてはならないのは、とても悲しい…』
Q.アイルトンがあなたにメッセージを送ったのも、そのためだと思いますか? 『僕たちはすでにたくさんのことを話しをしていたし、あの時にも翌日か翌週中にはF1の安全性のことについて 話し合うつもりだった。安全のためにFIAに対していっしょに何が出来るか。彼は話したがっていたんだ。 あのメッセージが本当に信じられないメッセージ以上のものであったのも事実…。 でも、コース上のライバルでなくなった瞬間から、僕たちのライバル関係というのはすべて終わっていた。 彼にとってもコース外でもライバルであり続ける理由などなかった。 それにライバルであったことも故意にそうしていたのであって、最後のコンマ数秒を求めて走るため (今もっている)モティベーションを超えた力を発揮するためには、それが容赦ない戦いである必要があったんだ。 それは僕の方にはない感情だった。僕は、アイルトンを相手にしても他の誰かを相手にしても、同じやり方で 仕事をしてきた。相手を特定した戦いの罠には決してはまりたくなかったんだ。 それは’82年、ディディエ・ピローニとジル・ビルヌーヴとの間に起こったことが…僕の中では一生忘れられないこと として残っているからなんだ。ジルはディディエに対する憎しみのために命を落としたと僕は思う。 ちょうどイモラで起こったことだけれど、彼らの間にはある約束があったが、(そのレースで)ディディエはそれを守らない で先行し優勝した。ジルは…本当に信じられないほどそれを恨んでいたんだ。そして次のベルギーGPの予選で、 ディディエがジルの前に出た時、ジルはディディエの前に出るためなら何でもしようとした。 もうディディエの後塵を浴びることに我慢が出来なかったんだ。 そして、彼は大きなリスクを犯してしまった。他の状況なら犯さなかったはずのリスク… (※’82年ベルギーGPの予選2日目、ディディエ・ピローニのタイムを知ってセッション終了10分前にピットアウトした ジル・ビルヌーヴはスロー走行していたヨッヘン・マスのマーチが進路を譲ったところに全開で追突し空中に舞い上がり、 マシンから投げ出され二度と帰らぬ人となった。) 僕はすごく苦しんだだよ。ジルとは親友だったからね…だから、こういった感情に呑まれてしまってはならないと、 いつも考えてきたんだ。僕とアイルトンにも同じことが言えたんだ。予選で僕があまりリスクを犯さないようにしたのは、 彼(アイルトン、ジルも)と同じリスクを負って戦いたくなかったからなんだ。彼にとっても後に僕が引退してからは、 同じことが言えたのだと思う。彼にとってF1は、もう以前とは違っていた。 彼には(追いかける)ライバルが必要だったんだ』
Q.昨年の末にあなたが引退する以前から、彼にはそれがわかっていたのでしょうか?
特に今シーズン(’94年)、彼は持ち前のモティベーションを少し失っていたように見えましたが。 『うん。その上におそらく今シーズン始めにウィリアムズのマシンが期待したほどの性能を持ち合わせていなかったと 気付いた時、最後のコンマ数秒を求めるのにすごく努力しなければならないとわかった時、それはきっと彼にとって 難しかっただろうね。それに彼は今まで経験することのなかった状況に置かれてしまったんだ。 つまり選手権の大本命、いや”超”本命と言われる状況だよ。去年の僕も同じだったけれど、エンジンは優れていて 他よりずっとパワーがあるから。とかそういったハード的な理由でね。 そして今までとは少し違う世代のドライバーを相手にだ。ドライバーの中で最も年上だったわけじゃなくとも、 最も経験豊かで現役でただ1人のチャンピオン。他の(シューマッハーのような)若いドライバーにとって、 ”倒すべき相手”という目標となった。それは、彼が望んだ状況とはあまりに違うものであった。 彼は”挑戦者”であることを望んでいた。でも否応なしに今年の彼の立場はチャンピオン保持者のプライドの防衛する ことになった。(勢いのある)若いドライバーを相手に防衛戦を展開しなければならなかったんだ。 それはきっと、より難しいことだっただろうね…』
Q.彼は孤独の中にいたと? 『うん。彼は孤独を好む人間だったと思う。彼は滅多に人に助言を求めたりはしなかった。 常に自分の意志に従っていく人間だった。そしてとりわけ、とても警戒心が強かった。強く家族と繋がっていて、 本当に家族と周りのごく限られた人間の言葉にだけ耳をかした』
Q.それでも、しばしば言われるのは、あなた方はとても違うキャラクタを持ちながら、同時にとても似ていると 言われます。それについては、賛成できますか? 『うん、ある意味では僕たちはとてもよく似ていたと思う。ものごとの見方とかは確かに似ていた。 たぶん本当はもっと彼は僕に近かった。でも彼はそれを見せたくなかったんだと思う。たとえば安全性とか 危険について、僕たちはとても頻繁に話し合ったけれど、プレスを前にして人々の前では、彼は(僕と)同じようには 話さなかった。 そのことが彼の弱さのように捉えられることを望んでいなかった。危険など恐れない人間なんだと捉えられたかったんだ。 でも実際は、彼は思われているよりもずっと僕に近い考え(リスクへの考え)の人間だったと思う』
二人の傑出したドライバーが共に最大限の力を振り絞って戦った。 そして幾つもの素晴らしいレースが生まれ、語り継がれていく。
Q.コース上の戦いの中で、プロスト vs セナのもっとも素晴らしいレースを挙げることはできますか? 『う〜ん…2人にとって?うん、たくさんあると思う。特に’88年にはね。’88年には本当に素晴らしいレースが あったよ。誰も覚えていないかもしれないね。本当に気づくにはF1マシンに乗っている必要がある。 メキシコGPは信じられないようなレースだった。ずっと2〜3秒差で1周目から最終ラップまでアタックし続けたレース。 それと…彼にとっては’88の日本GPがきっともっとも美しいレースだっただろうね。彼がチャンピオンを決めた レースだったしね。でも、一緒に戦ったレースはほとんどすべて、本当に素晴らしかった思う。常に最大限の力を 出し切ってたから。』
Q.彼がF1にやって来たこと、そして特にあなたのチームメイトとしてマクラーレンに来たことは、あなたのキャリアを 変えましたか? 『うん、当然の成り行きとして僕のキャリアを変えるものだった。でもそれは、誰にとっても言えることだよ。 人は歳を取るものだからね。スポーツの世界で時を過ごしていくと常に若い選手がやって来て自分のポジションを 奪っていく。それは普通の自然な流れなんだ。それを理解し、こころに備えておかないといけない。 彼はもちろん僕のキャリアを変えたよ。彼がいなければきっと僕は7回か8回、チャンピオンになっていたろう からね(笑)。でもF1がこれほど広く伝えられるようになっていたかどうかはわからないね。何れにしろ、歴史において 語られるのは、僕たちのライバル関係だろう。僕はそれがとてもいい意味で捉えられれば…と思う。 悪い思い出は忘れ、僕たちが一緒に残してきたスポーツの美しい映像だけが残っていけばいいと思う』
Q.安全性の話しをする時、あなたは、ドライバーの中でもアイルトンの事故を一番心配しているという 印象をいつも受けるのですが。’89年のアデレードのことを口にする時など特にそうでしたね。 『うん。アイルトンは他のドライバーより大きなリスクを犯すことが出来る人間なのだろう。と僕はいつも思っていたから。 彼はたぶんもっとも才能に恵まれ、もっとも器用で素晴らしいことをやってのけることの出来るドライバーだった。 でも、’89年のアデレードのような場合には、レースに勝つためになら、きっと彼はどんな危険も顧みなかったと 思うんだ。そして実際、僕たちは彼が他のマシンに激しく追突するのを目にした。僕の場合、たとえばマシンに 何か問題があると感じたらスローダウンするし、だぶんピットにも入るだろう。でも彼はすぐにはそうしないだろう? 本能的にそうできないだと思う。 うん。確かに僕はそのことを心配していたよ。これはイモラの事故とまったく関係ないのだけれどね。イモラの事故は 別として、彼は他のドライバーより大きなリスクを受け入れることのできるドライバーだったと思う。』
Q.あなた自身から見た、ドライバー=セナ、人間=アイルトンの魅力について、話していただけますか? 『分けて考えるのは難しいと思う。というのは、彼の人間性を知ることはとても難しいことだったからね。すごくね。 彼の人間性を知っている人は、本当に少ないと思う。さっきも話したように、家族や親友とのつながりがとりわけ 深かったからね。他の人間も彼が何かを望んだ時、とても頑固で意志が強いことはわかっていたけれど、 彼の人間性を正しく把握するのは、非常に難しいことだった。彼がどういう風に生きているのかを知るのは困難なこと だった。いつもすこし自分の中に閉じこもっていたし、たとえばテニスやゴルフなどのスポーツをみんなと一緒にするのも、 あまり好きじゃないようだった。あけすけな性格ではなかった。でもそれは特に彼は唯一のモティベーションである レースしかなかったからなんだ。いつも話してきたように、アイルトンの中で僕が一番惹かれたのは、彼が本当に 100%レースに捧げることができるという事実。ドライバーというのは100%レースに集中すると人はしばしば 言うけれど、100%というのはものすごい数字なんだ。僕のことを言うなら、僕には家庭も子供もいるし、 ゴルフや自転車、スキーと言う趣味もある。友達と過ごすのも大好きだ。自分では95%〜98%をレースに 捧げていると感じていた。それはほとんどすべてなんだ。それでも100%ではないんだ。しかし彼にとっては、 レースがすべてであり、他には重要なことは何もなかった』
Q.人々はそういうところに魅力を感じたのですね。 『そうだね。それによって彼は人々の間に畏敬の念を引き起こしたし、チームの中でも信じられないくらい強い存在と なっていた。間接的に彼はチームのボスになっていたんだ。僕にとってマクラーレンのボスは、アイルトンだった。 ロン・デニスと同格のね。というのも、本当に”働け、働け”って、彼に永遠に叱咤されてた感じさ。シーズン中は ずーっとだよ。 最後にはみんな疲れてしまうんだ。でも、それは素晴らしいことでもあったんだ』
Q.コース上の彼のテクニックについてはどうでしょう? 『彼のドライビング・スタイルについては、多くが語られてきたけれど、デビュー当時の彼のスタイルは、 少し違っていたと思う。すごくアグレッシブで派手。いつもスライドさせたり、縁石に乗り上げたりしていた。 彼はとても若かったから。でもその後、僕に非常に近いスタイルになってきたと思う。正確で、派手さが少なくなっても 効果的なドライビングになった。マシンのセッティングも僕に非常に近いものだったね。僕にとって同じセッティングで 問題なくスペアカーが使えたチームメイトは、ニキ・ラウダとアイルトン。この2人だけだった。ものごとに対する彼の姿勢、ドライビング・スタイルというのが、変わってきたのだと思う』
Q.それは、マクラーレンであなたと一緒に仕事をしながら、彼が学んだということですか? 『派手さや武勲といったものをすこし忘れて、その分結果を出すことを考えていく。彼はそういったことをずいぶん 学んでいったと思う。』
セナと一緒に成し遂げたすべてのものに敬意を表すため、 プロストはブラジルへ行った。そして彼はその思い出を生涯守り続けるだろう。
Q.イモラの話しになりますが、土曜日の朝のフリー走行の時、ウィリアムズの車載カメラと無線を通して、 彼があなたに送ったメッセージ (※フランスのTV、TF1のために、無線を通してコースを紹介しようとしたセナは、スタートラインを通過した直後に”コースを紹介する前に僕の友人・アランにメッセージ。君がいなくなって淋しいよ!”という短いメッセージを送った…)について 尋ねたいのですが… 『あのメッセージは僕にとって大きな喜びをもたらしてくれた。すごく感動したよ。すべての人にとっても素晴らしい ことだったからね。僕にとっても温かいメッセージだったし、彼も心からそう思っていたのだと思う。 何かを話したがっているという印象を受けた。僕たちが友達になれるというのは、スポーツ(F1)のイメージにとって 本当にいいことだったと思う。確かにあのメッセージとても象徴的だった。 不幸なことに、彼の事故の直前に送られたものだったからね。でも、何れにしろ僕が引退して以来、彼は僕と話しした がっていたし、パリのカート大会でも、何度も僕に質問したがっていた。僕も同じさ。いつも彼と話したいと思っていた。 モータスポーツ、F1を愛していれば、アイルトン・セナに無関心でいることなど、出来ないからね。 彼がこれからも何かを(僕と)分かち合いたいと思っていることが分かったことは、僕にとって、とても大切なことだった。 だから、あのメッセージは、ほとんど”解放”のようだったんだ。でも、去年のオーストラリアの最後の レースでもすでに彼はすごく優しかったし、冬の間にも、共通の友人であるジュリアン・ジャコビニを通して、 何度も温かいメッセージを送ってくれていた。もし、あの事がなければ、僕たちは完璧に関係を取り戻せたと思う。 きっと…何かを一緒にすることさえ可能だったと思う。きっとね…』
Q.スタートの前に彼に会いにピットに行きましたね? 『うん。スタートの直前だった。僕は彼がルノーのモーターホームにいるのを見かけたし、通りがかりに会いに行ったり もした。でも…レースでの幸運を祈りたかった…それが…僕の中に残る最後の彼の姿になった…。それは彼と僕の 2人の光景なんだ。周りには誰もいない。とても不幸なことだけれど僕にとっては心にこの映像を守っていくことが 大切なんだ。』
Q.彼の葬儀のためにブラジルに行った時、アイルトンのご両親に会いに行きましたね。彼らはあなたと話すことが できましたか? 『ご両親はとても優しかったし、彼の家族はみんな素晴らしい人たちだった。正直に言うとブラジルに行く前には、 少し不安だったし、自問もした…。でもいい意味でとても驚いたよ。ブラジルに行くのは自分の義務だと感じていた。 ここままで終わるなんて、絶対できないと思っていたんだ。僕たちが一緒に経験したすべてのこと…2人で表現した すべてのものに敬意を表するためにも。そこに行かなければ。という気がしていたから。彼の家族や友人は、 全員が僕たちの関係がどういうものだったのかを、心からよく理解してくれていた。 だからいろいろな捉え方ができると思うが。さっきも言ったようにそこには大きな敬意があったことは確かだし、 きっと僕たちはお互いが大好きだったと思う…。ブラジルに行くのは、僕にとっても重要なことだった。 それと同時にすべてのブラジル国民に対する敬意、すべてのアイルトンのファンに対する敬意、そしてすべての スポーツに対する敬意を表するためでもあったんだ。すべてのブラジル人、彼の家族の全員が、僕がそこに行ったこと を心から感謝してくれた。アイルトンのファンで僕に少し反感を持っていた人々も、僕のファンで彼に少し反感を持っていた 人々も、みんながひとつになっていた。ファンについて話してもいいのなら、素晴らしいことがあったね。 フランスで、アイルトン・セナ・ファンクラブの名誉会長になるよう頼まれたんだ。もちろん、すぐに承諾したよ。 人々の間に、もう決して敵対関係が存在していないこと、みんながひとつになることの大切さ。僕たち2人で素晴らしい ことをやってきたのだから。2人で何かを表現できるということ。それはとても大切だと思う。 この思い出を抱き続けていくことが、いちばん大切なことだと思う』
2004/11/26(Fri)
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